2007年12月16日日曜日

不老精神の源流

 自分のことは自分が一番よく知っていると思っているのだが、歳とともに元気がなくなっているという事実をなかなか実感できず・気づかず、その衰えた「肉体の変化や精神のアンバランス」は知らず知らずのうちに拡大していく。その変化は、体形に現れ(崩れ・肥満・弛み)・顔に現れ(血色・張り・皺・シミ)・声に現れ(張り・擦れ・漏れ)・・・「改善を目指す」もなかなか実行に移せないという観念の世界で悶々として抜け出せない自分を見ている「もう一人の自分の姿」が脳の中を駆け巡っている(「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」ごとくに )という情況だ。

 外回りの時代が過ぎてディスクワークが長くなればお腹の出っ張りや体力の衰えを感じる日が多くなる。「目標・目標」で追い立てられていた時代の酒の量と今の量がそれほど変化していないと思い込んでいるのだが、明らかに「馬鹿のみをしなくなっている」ことや「寝過ごしなどがなくなっている」ことを考えるとその量も減っているのだろうし、ただ運動量が減り新陳代謝が悪くなっているという事実は気になる。
 ある程度人生をやってくると(消化してくると)自然な形で「諦め」や「」が生まれ「何もできない」「何もしない」という方向へ傾斜していく場合がある。かと言って無目的に「生き」・「放浪し」・「徘徊している」というわけではないが、本当の意味での目的や目標を見失っている、もしくは「実感できるレベルの目的意識を選択できない」という第二のニュートラル時代を迎えていると言えるかも知れない。

 「老い」という精神面での変化と肉体面での変化を事実として感じるとき「人生の終焉」や「この世への執着」乃至「生きた証」などに思いが馳せる。この老いとどう共生し、生涯「青春の人生」をどう構築するか、それは荒療治だが目標を作って肉体的な壁を度外視した行動を主体とした人生を敢行し「途中で倒れることなどものともせずに燃焼し切る」そこにのみ最高の人生を見いだすというやり方だ。

2007年10月29日月曜日

「人生学」のはじめに

人生ノ大半ヲ無意味ニ過ゴシ、終焉ノ時ヲ僅ニ残ストイエドモ、無意味ニ時ヲ浪費スルバカリダ。生活ノタメトイウ認識、及ビ本質的ニ理解スベキ世界ガ見エナクナッテイルタメナノダロウガ、コノママノ勤務ヲ継続スルコトヲヨシトスルノカ再検討シナケレバナラナイ段階ニ入ッタ。時代ガイイノカ、ソレトモ歴史ノ表舞ニオドリデルニハ悪イ時代ナノカモ計リシレナイトコロデアルガ、ソノ最高ノ生死ヲ表現セネバナラナイト思ッテイルノダ。何ヲモッテ表現スルカダガ、一番ヤリタイコトヲ余ストコロナクシアゲテ終ワルコトダ。松陰ノ考エカタガ一番シックリクル。ソノ生涯ノ長サデハナイ。時間ガカカッテモ挑戦シツヅケルコトダト思ウ。志ナカバデモ、安易ニ生キナガラエルヨリハマシダ。人生最大ノイベント結婚ヲ乗越エ、子供ヲ一人前ニソダテ、生老ノ壁ヲ打破リ死ノ淵ニ完結スル。タトエ明日死シテモ悔ルコトナキ人生トハ信念ノ人生ヲ生キ切ルコトダ。死ヲドウムカエルカ、歓喜裡ノ一人旅デアル、心シテ勇敢ニアレ。ソコニ自分ガアル人生ナラ後悔ガナイ。死ノムコウガワニ希望ヲミテ逝ケルナラベストダ。