2008年11月11日火曜日

魂の叫び

 『「自分の歴史」と言うものを客観的に遠くから見つめてみる』ということをしないまま殆んどの人々がこの世を去ってしまう。
 「死のための準備」をするということは、後世に残すべきことがあろうがなかろうが、そのままの自分自身なかんずく魂魄を留めるということである。どういう形でもいい、それがその人を端的(否アバウトでもいい)に現している事柄であれば何でもいい。それに接したとき活き活きと甦るものであればいい。たとえば、言い伝え、しぐさ、癖、口癖、座右の銘、嗜好、趣味、性格などなど、何でもいい。生きざまそれ自体に意味がある。自分をどう評価するは他人であり、自分のために自分が独我論的に評価したところで空虚である。しかも虚構に過ぎない。
 すると、人々は「何を残すと言っても残すべき何もない」という場合が多いのだが、残された者が、「それをどう受け止めてどう保存すべきか」を考えて、それら「生の証」を後世に伝えるという労作業を実行するということができれば、それでいい。
「筑紫哲也」というジャーナリストに耳を傾け長い間気にかけ、参考にしてきたが、最期の多事争論での発言は心に残った。『「何が選択肢なのか分からない」というが、「物事は単純なんだ」「パイのとりあいなんだ」「未来にも過去にも投資していない」「必要としないところに配分している」』。「本来生きていくべきところに向かなくなっていて、日本は癌にかかっているんだ。敵はなかなかしぶとい。問題はここにあるんだ。戦うしかないんだ。」というところを記録したい。そして、「負けちゃいけない」「正しいと思うことを主張し続ける強靭な意志が不可欠なんだ」と言っているように感じるし、「言論戦は死を賭しても戦うものでなければ負けてしまう」そう言いながらフェード・アウトしていく自身を見ていたのだろう。
 最近の偉い方々の発言が乱れている。「言論の自由」は大事な権利である。正論を正論として言い切っていくというのは大事なことだが現実はそう簡単ではない。ただ、「言論の自由」というのは何を言ってもOKということではない。「権利の乱用」になってもいけないし、「身の程知らず」でもダメだ。