千代乃記
ふるさとの思い出の糸を手繰りながら記憶に残る鮮やかな風景(駆け巡った山河・一枚一枚の網膜に残る画像)を見つめ、そこに残る母の意思を確かめながら悲喜こもごもの若かりし時の過去と対話する。そこには、今は亡き母の笑顔があった。 はや逝きて2年、ひとの一生を慮るのは寂しさからなのかも知れないが、「さよなら」と言うこともできなかった」別れ、本人も何が起こっているのか認識することなくこの世を去って逝ったことなどを一筋の太い糸として残し、その周辺に広がる毛細血管のようなひとつ一つの道を辿ってみたいと思う。 ふと浮かんでくるのは、いつもの夏の「照りつける太陽」が眩く、木陰に佇む母の姿である。「姐さんかぶりにモンペ姿、赤銅色(この表現をよく使っていた)の顔、土荒れの手(皮膚に泥の染みた手)、やや曲がった腰(重い荷物を背負いすぎたことが原因)」、一つひとつが労苦の象徴だと思うし、幼少から最期の日まで、ささやか(本人がどう思っていたかは知る由もない)ではあるが尊いその一生を称えるために母の内証とする奥の細道を旅してみる。 昭和5年1月葛生町牧(現佐野市牧町)に生まれ、生家は代々「鼈甲屋」と呼ばれており、提灯屋も営んでいたと母より聞いていた。幼少(七歳)の頃に父を亡くし、親代わりだった長男(保)のことをよく話しに出していた。その長男も戦争で帰らぬ人となった。また、次男・三男の話をよくしてくれた。自分ができなかったことを共有するかのように誇らしげに語っていた。特に三男の勉強熱心なところをこんな表現で何回も話してくれた。母の母親から「そんなに勉強ばっかりしていると病気になるよ」(強い口調であったと思われる)と言われると、すっと家を出て家の周りを一周してまたすっくと机の前に座り込んでいた」と。そうした日常が続いていたであろう風景が見えてくる。その兄(三男)が母(妹)のことを気遣ってくれていたことが分かるエピソードがある。「当時は勤労奉仕(母はよく三鷹の日本無線に勤労奉仕に行ったときのことを話していた)というのがあって、ある夜、母を日本無線に訪ねたところ、ちょうどその時が夕食時で、丸ごと漬けたキャベツをみんなで一枚一枚剥がしながら食べていた」と一回忌に話してくれた。妹思いの兄、不憫に思う心情が時空を越えてダブりながら伝わってくる。 幼少のときの父の死、多くを語ることはなかったが激動の時代(昭和10年代)の思春期を前に起こった悲哀がいかばかりだったか思われる。もののない時代、勉強より家の手伝いが優先された時代、おやつと言えば芋類程度、どこの家庭も麦飯・うどんなど質素な生活だった。尋常小学校での生活、教育指導、勉強内容(ときに竹槍訓練)、家庭と学校の勉強・教育に対する変遷など、大河の激流に逆らうことなく不安な日々を送っていたのだろうか。その思い出話を思い起こすとき牧不動観先の小高い山の斜面の画像が浮かぶ。あの牧歌舞伎の行われるあたりだ。恐らくそのあたりには松林などもたくさんあったのであろう。生前、母から「松根油(松の根株や枝を乾留して得られる)掘りに行ったとき、松脂で飛行機が飛ぶわけない」と思ったとかの回想を聞いたことがある。日本全体に軍靴が響き、女こどもの銃後の生活がそこにあったのだろう。昭和20年8月15日(15歳7ヶ月)の終戦まで、多感な日々を戦争という美辞麗句に翻弄されながら過ごしたささやかな歴史がそこにもあったのだろう。 今なら高校1年生の終戦体験だったわけだ。 終戦、15の夏の出来事、敗戦、占領下、食糧難・買出し、農作業(水・米・野菜)、魚、貧富格差社会、当時蔵相成りたての池田勇人は、昭和25年12月7日参議院予算委員会において、高騰する生産者米価に対し社会党議員より蔵相の所見をただされ、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」と発言して問題になる。所謂「貧乏人は麦を食え」発言としてマスコミの槍玉になった。それは至極当然な言葉として、格差社会を肯定する発言であったにもかかわらず一般国民にも受け入れられたのではないかとも思える。確かに、その時代は復興の時代だった。もしかしたら、「麦さえ食えない時代」であったのかもしれない。むしろ、麦が食える人間は幸せで、その発言から10年経っても麦飯は食われていたのだ。今では健康食として麦飯を食うということになっているが、当時は「貧乏イコール麦飯」という認識が発想の根底にあった。 その翌年、母は21歳で結婚、昭和28年に長男、昭和30年に次男が誕生する。母子家庭となった以降、母親の発言には相当の威力があったようで、母親の言うとおりに結婚したとのことだが、当時の結婚として恋愛結婚は一般的ではなかったようだ。何度か実家に帰ったようだが、厳父のごとき母親の一喝によって追い出されたようだ。恐らく姑やその他忍耐と堪忍と辛酸の日々を経験したんだろうし、子育て・病苦、もともと心臓があまり丈夫ではなかったようで、無理に無理を重ねながらの半生がそこにあったのだろう。(次回に続く)
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