快適な人生にはそれなりの忍耐努力が不可欠である。どこかで誰かが努力して忍んで戦っていることを分かってあげることだが、そこが理解できないのだろうし、理解していても感謝の気持ちをストレートに表現する話術を兼ね備えていないのである。求めることなしに与えられるサービスというのは全くありがたいことだが幾千万の苦闘の礎がなければ叶わないことであったことを沈思熟考すべきである。どんなに崇高な哲学といえどもこの現実から遊離して変革の起点とならないような哲学は無用の長物に過ぎない。
「なんでこうなんだ」「これはこうしておけよ」「なんど言ったら分かるんだ」「分かってねえな」などなど、自分のことは気づくことなく他人に対しては苦言が洪水のように湧き上がってくるものだ。それらの苦言をストレートに表現することに躊躇いじっと耐えながら静観して語彙を和らげ言葉を選び何をしてあげられるかを考えるのである。尽すとまではいかなくとも思い出となることやあの時「嬉しかった」と言って貰える心の財産を築くことがベターである。「甘やかす」「甘やかし」という視点からもっと厳しい「注意」「指導」「躾(しつけ)」というものを具現化しようとするとき根底には、愛するものに対する「よくしたい」「立派になって欲しい」という強い意志が働いていることは間違いのないことではあるが、感情の動物としての人間行動には親(優越的な地位にある者)であるという自覚より動物としての生存本能からくる感情が支配的になってしまっていることから感情の縺(もつ)れに発展してしまうのである。哲学における理性は、すべての人間に平等に与えられているという前提から発想するデカルト的な懐疑主義も、この感情と理性の間で、理性には感情に支配された理性というものが潜在し「理性」を差別的であるとすることで、この現実の変革・改革する「方法序説」に新しい展開を約束する。
親や子でも或いは他人でも同様の感情に支配される瞬間というものがある。むしろ日常茶飯事でもある。自分がそうして欲しいと思うことは他人でも(親子の関係でも)そうして欲しいと思うものだし、偉そうに先に威圧的に命令でもされたなら不愉快極まりない感情に襲われ、「逆上」という現象が現れて初めて気づいたときには、もしかしたら元には戻れない鼻持ちならない関係ができてしまう。それは不幸の出発点であり感情に差別を与え理性に未熟な世界を与え、たとえそれが人格というもので結合した社会だとしても不完全極まりないものであるという自覚と直観から哲学をしなければならない。
「無差別に人を傷つけ殺す」「兄弟を殺す」「親を殺す」・・いまやありとあらゆる殺人のケースが連発している。殺人の根底に流れていたものも動機もその主要な部分を支配していた「怨恨」というものではなく、そこに及んだ理由が余りに他愛もなく頭をひねってしまうのである。殺人の根底を分析することは現代の病巣を見極めることでもある。
親と子との関係が大きく変化している時代である。怒れば意識改革が可能な時代ではなくなっているのである。ある種の人間が総纏めに「理不尽であり一方的であり話しても無理だと結論付ける人間群が急増しており、安易であり、テレビの映像の世界のことのように処理している精神がそこに蠢いている。
人間の理性の平等観が人格的な満足感を人間に与え、貧富の差や精神的な差異などを超越してきたと考える。人間を「考える葦」と形容し、人間の理性があたかも絶対であるかのように自然すら支配してきた人間である。それが幻想に過ぎないということに未だに気づいていない人間でもある。人間が人間たる所以は忍耐であり努力を惜しまず人格を形成できるということである。善に貫かれた人間の一生というものが自己の信念や主義や思想・哲学の世界に溶け込めず自我を形成するどころか、ますます混沌の中に埋没していくというのが21世紀のもうひとつの顔となった。敗戦から63年、人々の心に平和の砦が失われ生命に対する畏敬や尊厳が失われればまた再び軍靴を響かせることになる。
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